萬葉集 210番歌
現身と思ひし時に、とり持ちて我が二人見し、走り出の堤に立てる、槻の木の方々の枝の、春の葉の繁きが如く、思へりし妹にはあれど、憑めりし子等にはあれど、世の中をそむきし得ねば、陽炎のもゆる荒野に、白拷の天領巾隠し、とりじもの朝立ちいまして、入日なす隠れにしかば、吾妹子のかたみに置ける緑子の恋ひ泣く毎に、取り与ふ物しなければ、男じもの腋挟み持ち、吾妹子と二人わが寝しまくらづく閨房の中に、昼はもうらさび暮し、夜はも息づき明し、嘆けどもせむすべ知らに、恋ふれども会ふよしをなみ、おほとりの羽交の山に、我が恋ふる妹は坐すと人のいへば、岩ねさくみてなづみ来し、よげくもぞなき。現身と思ひし妹が、玉かぎる仄かにだにも見えなく、思へば
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関係詞のお化けみたいな歌
この世の人だと思っていたときに、自分たち二人で手に取りあげて見た、門口の堤に立っている、槻の木の彼方此方の枝が、春の若葉の繁るように、繁く思っていたあの人ではあるが、心変わりなどすまいと、思っていたあの人ではあるが、……
在りし日の妻。二人で槻の木の枝をとりあげた思い出。その槻の木の彼方此方の枝に、春の若葉が芽吹いて繁る。その繁るように、若々しいと思っていた、頼りにしていた妻なのに…、という回想の表現。
槻の木と春の生命、若々しい日の面影ゆえに、挽歌はいよいよ悲しみを増すのか?
『古今和歌集』仮名序において、「かきのもとの人まろなむ、哥のひじりなりける」と書かれていた理由が少しわかったcFQ2f7LRuLYP.icon